リバイバル上映でやっと観てきました。
しかし、J・K・シモンズは良い芝居してますね。
アカデミー賞の助演男優賞・編集賞・録音賞を受賞
わずか106分と短いけど、
引き込まれて短さを感じません。
ラスト9分が手に汗でした。
ネタバレも含めて、
皆さんの書き込みの一部を紹介します。
<あらすじ>
名門音楽学校へと入学し、
名門音楽学校へと入学し、
世界に通用するジャズドラマーになろうと
決意するニーマン(マイルズ・テラー)。
そんな彼を待ち受けていたのは、
鬼教師として名をはせるフレッチャー(J・K・シモンズ)だった。
ひたすら罵声を浴びせ、
完璧な演奏を引き出すためには
暴力をも辞さない彼におののきながらも、
その指導に必死に食らい付いていくニーマン。
だが、フレッチャーのレッスンは
次第に狂気じみたものへと変化していく。
<映画,com 村上章 引用>
J・K・シモンズ(60歳)といえば誰もがどこかで目にしている名脇役。しかしコワモテな顔面ばかり印象に残り、正直どれだけ演技が上手いかなんて考えたこともなかった。ごめんなさいシモンズ。彼が「セッション」で披露した戦慄と笑いが背中合わせの怪演は、オスカー受賞など当然と思わせるばかりか、今後も繰り返し物真似ネタにされるであろう映画史的事件である。
<YU@K(ユーケー) 引用>
なぜ「セッション」のラスト9分19秒は素晴らしいのか?
ラストの展開、それはあのステージでの出来事。フレッチャーが見せた優しさは完全なフェイク。行き過ぎた指導が露見し大学を辞めさせられた、そんな自らを陥れたニーマンに復讐するため、あえて嘘の選曲を伝え、観客の前で恥をかかせる。一度離れ離れになった師弟がステージで絆を取り戻す展開かと思ったら大間違い!フレッチャーが本番直前に「お前だろ」と告げた辺りから完全に脳みそグラグラ。観ているこっちも「え?」と冷や汗が出る中、他の演奏者が次々と別の楽譜をめくり出す。あの焦燥感は半端じゃない。それでいて、演奏が始まると何とか食らいつこうとするニーマンが非常に滑稽。横の弦バス奏者に「何やってるんだ!?」と言われるも、だってどうしようもないのだ。あの数分間は非常に怖かった。どんなにドラムを叩こうも、曲と合わない。一応“それっぽく”合わせようとすればするほど、見苦しさが増すというあのジレンマ。もう、正直観てられなかった。
そして、訪れる敗北。フレッチャーの、自分自身のステージでもあるのにそれをあえて失敗にしてまで復讐するその徹底ぶりに頭が下がる。ステージから満身創痍で身を引くニーマン。抱きかかえる父。「お前はよくやった」。ほくそ笑むフレッチャー。ここでニーマンが何を思い、何を決心したのか、考えると面白い。彼はフレッチャーの本心や信条を、すでに知っている。どこまで彼の意図を汲み取ったのか、どこまで理解したのか分からない。また、今回のはもしかしたら単純な復讐劇なのかもしれない。ニーマンが「どこ」まで考えを巡らせたのか非常に興味深いが、彼はまたステージに戻っていく。フラフラと。
フレッチャーはマイクを持ち、観客に対して説明している。「次はゆっくりした曲を…」と言いかけたその時、ニーマンのドラムが炸裂する。たった1人での、ドラムソロ。しかも、“ゆっくりした曲”だなんて絶対にあり得ないそのテンポ。仰天する他の奏者に、目を見張るフレッチャー。彼がニーマンを脅すも、聞く耳を持たずドラムを叩き続ける。「合図する!」。横の弦バス奏者にニーマンの決意の眼光が飛ぶ。ここで、観ているこっちは物語の落とし所を完全に見失う。まさかの展開なのだ。以前ステージ上でフレッチャーに殴りかかったニーマンだが、彼の2度目の反抗は拳ではなく、ドラムだった。ラストの展開、それはあのステージでの出来事。フレッチャーが見せた優しさは完全なフェイク。行き過ぎた指導が露見し大学を辞めさせられた、そんな自らを陥れたニーマンに復讐するため、あえて嘘の選曲を伝え、観客の前で恥をかかせる。一度離れ離れになった師弟がステージで絆を取り戻す展開かと思ったら大間違い!フレッチャーが本番直前に「お前だろ」と告げた辺りから完全に脳みそグラグラ。観ているこっちも「え?」と冷や汗が出る中、他の演奏者が次々と別の楽譜をめくり出す。あの焦燥感は半端じゃない。それでいて、演奏が始まると何とか食らいつこうとするニーマンが非常に滑稽。横の弦バス奏者に「何やってるんだ!?」と言われるも、だってどうしようもないのだ。あの数分間は非常に怖かった。どんなにドラムを叩こうも、曲と合わない。一応“それっぽく”合わせようとすればするほど、見苦しさが増すというあのジレンマ。もう、正直観てられなかった。
そして、訪れる敗北。フレッチャーの、自分自身のステージでもあるのにそれをあえて失敗にしてまで復讐するその徹底ぶりに頭が下がる。ステージから満身創痍で身を引くニーマン。抱きかかえる父。「お前はよくやった」。ほくそ笑むフレッチャー。ここでニーマンが何を思い、何を決心したのか、考えると面白い。彼はフレッチャーの本心や信条を、すでに知っている。どこまで彼の意図を汲み取ったのか、どこまで理解したのか分からない。また、今回のはもしかしたら単純な復讐劇なのかもしれない。ニーマンが「どこ」まで考えを巡らせたのか非常に興味深いが、彼はまたステージに戻っていく。フラフラと。
そして、彼の狂気の演奏が周囲を巻き込み、他の奏者もそれに従うしかなくなる展開。まさに「ねじ伏せる」。ニーマンはその驚異的なテクニックと覇気により、周囲を強制的に演奏に連行した。あのフレッチャーですらその曲に合わせて指揮をするしかない。弦バスのビートが入り、ピアノが続き、遂に「キャラバン」のイントロに入った瞬間のあのカタルシスったらない!ニーマンのフレッチャーへの復讐が、最も“正当な”方法で達成された瞬間なのだ。まさにこの数分間に、復讐劇が交差する構成になっている。フレッチャーからニーマンへの、ニーマンからフレッチャーへの、互いの復讐がクリティカルにヒットするのだ。しかもニーマンのは、この映画で終始求め続けられた圧倒的なまでのドラムテクニックによる復讐だ。これで痺れない人がいるだろうか!
「キャラバン」の序盤、仕方なくこの曲の指揮に収まる事にしたフレッチャーは「お前を殺す」とニーマンに囁く。そして、ここから!ここからの!J・K・シモンズの演技が本当に素晴らしい!全ては表情の演技だ。彼は気付いていく、ニーマンが仕掛けたこの「キャラバン」が素晴らしい演奏に到達しつつある事に。ニーマンのテクニックが、パワーが、他の演奏者を見事に引っ張り上げ、バンド全体が何段階も高い次元に到達しようとしている。J・K・シモンズの表情のひとつひとつから、それを読み取る事が出来る。彼の、認めたくない満足感、それでもこの演奏に納得してしまう音楽家としての性、そのジレンマが読み取れる表情が完璧なのだ。
演奏中盤、管楽器の矢継ぎ早のリズムとドラムソロが何度も交互に行われるフレーズがある。管楽器が「タラッタラッタラッタラ!」と鳴らすと、ドラムが「ドカドカドカ!」とソロで返す(「セッション サウンドトラック」収録「キャラバン」3:43~)。これが何度も繰り返されるくだりで、フレッチャーはとても楽しげに指揮をしているのだ。両手の人差し指を交互に前に指して、この「キャラバン」を指揮する事を純粋に楽しんでいる。ここ!ここなのだ!もうここで泣く!ニーマンの演奏が、あのフレッチャーを楽しませたのだ!あの鬼教官を、純粋に指揮する楽しさに導いたのだ!もはやこの一瞬で、ニーマンはフレッチャーの指導を超越している。弟子が、師匠の教えを超え、還元している。一瞬前まで復讐し合っていた2人が、この瞬間、確かに同時に音楽を楽しんでいるのだ。しかし、これはまだこの映画の最高到達点ではないのだから恐ろしい。
そして、やがて「キャラバン」が終わる。が、ニーマンのドラムは鳴り止まない。彼のドラムは怒涛の勢いのまま続いていく。演奏に没頭し満足感を得ていたフレッチャーも、ここで流石に焦りを覚える。しかしニーマンはまたもや「合図する!」と。ここで、フレッチャーは彼の意図を察するのだ。
ニーマンのドラムソロは続く。叩き続け、叩き続け、リズムを超越し、息と意識が薄くなる。もはや何を叩いて何をしているのか分からなくなる程に、彼の意識は高次元に達していく。あれぞまさに“ドラマーズ・ハイ”な状況だ。しかし、意識が飛びそうになる彼の手綱を握るのは、フレッチャーだ。彼がドラムのそばに歩み寄り、ニーマンのソロを見守り、そして指導する。この瞬間、他の演奏者も、ホールの観客も、もはや2人には見えていない。それは本編最初のシーンと同じく、まるで2人きりの練習室だ。あの1対1の戦いが、もっともっと高い次元で、あろうことか本番のステージで再現されていく。そして、今回ニーマンはフレッチャーの要求にことごとく応えていくのだ。
そして!ここ!ここだ!ここがこの映画の最高到達点!ニーマンのあまりのドラムソロと強打によりスタンドの接続が緩くなり、倒れかけたサスペンドシンバルを、フレッチャーが手に取り、立て直すのだ!彼が!あのフレッチャーが!「大丈夫だ、そのまま続けろ」という表情でニーマンを自然とサポートし、手助けするのだ!
…もうこの一瞬で、私は完全に泣いてしまった。ぶわっと、涙が溢れ出てきた。絶え間なく続くドラムソロの最中に、これまでの師弟関係の全てが昇華されたあのシーンを観て、感極まってしまった。フレッチャーがニーマンをサポートする。手助けをする。ニーマンがドラマーとしてこれまでにない境地に辿り着きつつある事を、鬼教官が認めた何よりの証拠である。彼の教えに、恫喝に、暴力に、ニーマンが完全に応えて、あろうことか師匠を真っ直ぐにねじ伏せた瞬間なのだ。あの一瞬で遂に完成した2人の絆を思うと、涙が止まらないのだ。
やがて終わりを迎えるドラムソロ。感極まっているのは観客だけでなく、劇中のニーマンとフレッチャーも同様だ。そしてそれはただのドラムソロではない。「キャラバン」はまだ終わっていないのだ。溜めて、溜めて、そして辿り着き、管楽器のハーモニーが「キャラバン」に幕を下ろす。瞬間、「セッション」は終わるのだ。スパッとエンドロールに入る。見事!見事である。もうあそこまで行ったら、何かやるだけ野暮なのだ。終わった後の云々なんて、もはや必要ない。ビートで理解しあったのは、ニーマンとフレッチャーだけでなく、観客と「セッション」も同様なのだ。ここでさくっと終わるその潔さが、ラスト9分19秒を唯一無二の素晴らしいシーンに仕立て上げている。
この「セッション」のラストの一連の展開。まずは師匠から弟子への復讐、そして弟子から師匠への復讐、力技で復讐を遂げる弟子、それを認める師匠。やがて、この「キャラバン」1曲の中で、どん底の状態からこの上ない高みにまで、2人の絆が構築されていく。その瞬間、2人はもしかしたら初めて音楽を純粋に楽しんだのだ。本当に見事だ。最高だ。最高としか言いようがない。だからこそ、このラストの展開は素晴らしいのである。この記事のタイトルに「血とビートの殴り合い、恫喝の向こうの涙」と書いたが、涙したのは言うまでもなく観客である。何かを失った訳でも、何かを得た訳でもない。ただ単純に「到達した」からからこそ、そこに届いたからこそ、涙が出る。このラストシーンがあってこそ、「セッション」は唯一無二の傑作になったのだ!